山本左近は、現在でこそ実家の医療法人を継ぎ、医療・介護・福祉の世界に身を置いていますが、かつてはF1ドライバーとして活躍する人物でした。今の活動を知る上で、まずは左近がどんなドライバーだったのかというのも合わせて確認しておきましょう。
幼少期からF1ドライバーを夢見ていたという左近。小学生のころ、はじめてF1マシンを目にしたときに、「自分はこの車に乗るんだ!」と確信したそうです。多くのF1ドライバーは12歳ごろからすでにカートなどの競技に挑戦しているのだとか。それを知った左近は両親に直談判しました。ここから、彼の夢のスタートが始まったのです。「人間は自己実現不可能な夢は思い描かない」これが、左近の座右の銘です。これは彼が追い込まれたときや辛い時にも、新たな道を切り開く導になる言葉でした。
F1への登竜門とも呼ばれるF3に参戦したのは2001年。「トムス」という当時の常勝チームが契約を申し入れたのだそうです。
F3デビューを果たした後については、「非常に恵まれた環境だった」と左近は語っています。鈴鹿予選で大クラッシュを起こしてしまった際に、チーム監督から「悔やんでも仕方がない。同じ間違いを犯さないように」とアドバイスを受け、そこからミスをしても前進するようになったといいます。そして7月の鈴鹿で初めて表彰台を獲得。デビュー年でありながら、シリーズ4位の成績で、日本人最上位かつ最年少の好成績だったそうです。
翌年の2002年にはドイツF3、2003年にはユーロF3へ参戦し、2004年にふたたびトムスと契約を結び全日本F3へ。そこで初優勝を果たすと、2005年からは国内最高峰と呼ばれるフォーミュラ・ニッポンへ昇格。そこでは、歌手の近藤真彦が経営するKONDO Racingから参戦したそうです。
山本左近が本格的にF1へ参戦を果たしたのは2006年。しかし、このときはまだレギュラードライバーに代わるセカンドドライバー・サードドライバーとしての参戦だったそうです。そして2007年、チームの広報活動に専念していた左近でしたが、ついにF1チームのレギュラードライバーに抜擢されます。
スパイカーというF1チームでレギュラードライバーだった人物がチームを解雇され、その後釜に左近が選ばれたのだそうです。当時、経験豊富なライバルが多数いる中で勝ち取った契約だったといいます。
そして、翌年2月にはまた別チームのテストドライバーとして契約。同年7月にはGP2シリーズへの復帰を果たし、2009年まではGP2シリーズで出走していました。
2010年にはF1へ戻り、スペインのチームとテストドライバーかつリザーブレースドライバーとして契約。イギリスGPでは正ドライバーに代わって出場し、2007年以来の決勝進出を果たし完走。その功績が認められてか、その翌GPからは正ドライバーとして参加することになったといいます。その後もイタリアGPではアクシデントに見舞われながらも19位で完走。日本GPでも順位は最後尾グループでありながら見所を作り、地元ファンを沸かせる活躍を見せたそうです。
2011年はヴァージン・レーシングというチームと契約し、リザーブドライバーとして参戦。契約当初は3戦のみの予定だったそうですが、山本左近の活躍が認めらえたのか、その後もリザーブドライバーとしてチームに残ったそうです。